2015年2月1日日曜日

物言えば唇寒し

 せっかく好き勝手に物を書いているので、そしてこんなものを読んで頂いているので、できれば楽しいことを書きたい。正直、心からそう思っている。が、世界で起こることは、そうでないことばかりだ。パリで恐ろしいことが起こったと思っていたら、今度は日本人が人質に…そして、痛恨の結果がもたらされた。
 今、後藤さんを支えようと、世界に“I am Kenji”の輪が広がっている。ただ、自分から見ると、後藤さんは立派な人過ぎて、自分が彼だと言うのは何だかおこがましい気がする。何も見つからず、何もできずにいた若い頃、行き詰ったり、引きこもったり、八つ当たりしたり、日和見したり、長い物に巻かれようとしたり、新しいものに希望や生きがいを見出そうとしたり、”Bigger than myself”な自分を演出・夢想したり…そうだ、自分は後藤さんというよりも、むしろ湯川さんなのだ。“I am Haruna”なのだ。
  残念なことに、ネット上では、彼を嗤ったり、自己責任だ、当然だという言葉が飛び交っている。それは、在りし日の、そして今もまだ残る、屈折した自分に向けられているかのようだ。もし自分がこんな冷淡で巨大な壁のような匿名の化け物に襲いかかられたら…きっとその状況に置かれただけで、恐怖に心がつぶれてしまうだろう。

 さて、もう少し一般的に見てみると、ここのところ、他人の弱さや迷いを許容しないような、厳粛で立派なあり方が蔓延しているように思える。以前から言われていたことではあるが、昨今とりわけ、国家や世間様への責任やら道義やらが、これまで以上に求められるように感じられる。
 つい最近も、サザンの桑田氏の歌が政権批判だ、褒章のメダルの扱いが不遜だ、との批判がネット上を席巻していた。で、例によって本人が謝罪…ある意味でこの批判のあり方は、ムハンマドの風刺画に目くじらを立てることに似ている(もちろん、それが実力行使に至るのは別論である)。
個人的には、マジメなことをバカにしてみたり、バカらしいことをマジメにやってみたりできることこそが、社会の健全さや余裕を表すものだと思う。面白おかしく生きるタイプのミュージシャンの言動にいちいち噛みつくのは、世の中がおかしくなってきていることの証左といえるだろう。
 ここでいちいち具体例は出さないが、そういう風刺や皮肉を許さない姿勢、とりわけ、そういうものを国家と心ある市民とが一体になって批判する姿勢は、全体主義的専制国家に典型的なものだ。いや、それが望ましい、と言うのなら、むしろ正しい道に進んでいると言うべきなのかもしれないが。
それにしても、もっと不思議なのは、今回の人質事件の件で安倍政権批判を行った某野党議員に対して広がった批判である。野党なんていうのは与党を批判するのが当たり前、とりわけ政権の首班などは、人権侵害に近いくらい悪口言われるのがむしろ世の常ではないのだろうか。
 野党議員が政権(首班)批判をしたらその政権からだけでなく世間からも猛批判されるというのは、それこそ全体主義的専制国家に顕著なことだと思うのだが、なんだか聞くところによると、もっともらしい理由があるらしい。いわく、テロリストを非難せず政権(首班)批判を繰り返しているのはいかがなものか…

 この論法が世の中に広く受け入れられているとすると、自らの常識のなさに絶望せざるをえない。自分からすると、これはちょうど、納豆が臭いと文句を言っている人に、う○こが臭いと言わずに納豆が臭いとばかりいうのは納豆に対する冒涜だ、とでも言っているように聞こえるのだ。
 自分にとって、う○こが臭いのは言わずもがなであり、恐らくすべての人がわかっているはずのことだ。これに対し、納豆はとりあえず食べる物であり、さらに自分と同じ価値や文化の基準の中にあるはずのものだから、それらはそもそも別個に論ずべきである。それを敢えて同列に論じなければならないとすると、それは逆に納豆をう○このレベルに引き下げることになりかねない(念のためですが、自分は納豆が大好きです)。

 いずれにしても、政権も、マスコミも、社会も、そして人々も、なんだかあら捜しがひどすぎる。世の中総じて心に余裕がなくなっているのだ。ちょっとのことでやれ不敬だ、やれ売国だと、国民みんなの敵が作り出される。そして逆に、自らが敵になることを恐れ、自分も敵を一生懸命批判する。なんだかいじめの構図そのものだ。
 こんな状況を目にするとき、中国を批判できるほど、この国がリベラルな価値を持ち合わせてはいない、ということを実感する。いや、少なくとも精神的・心理的な面では、日本のほうがよほど全体主義的かもしれない。もちろん、それが中国のあり方を肯定する理由にならないのは、言うまでもないが。

※ブログ管理者より この記事は2/1以前に書かれたものです。

2015年1月16日金曜日

面白くやがて哀しき

 先日上海の将棋倒し事件について少しご紹介したが、その際少し気になったことがあった。それは、亡くなった方の人数である。事件の状況がもう少しわからないので、それが多いとか少ないとか言うつもりはない。ただ、発生当初の35人という数は、大規模な事故で頻出する数字と言われている。それより多いか少ないかで、上層部の責任の問われ方が異なるから、だそうだ。そういえば、「高鉄」(中国版新幹線)事故もあのように凄まじい惨状を見せながら、当初の死亡者が35人くらいだったな、などと思うと、なんだか猜疑心が生じてこないでもない。

 さて、ちょっと重い話ばかりで申し訳ないので、今日は少しバカバカしい話をご紹介したいと思う。
 今年の年末、中国で最も人気のドラマは、絶世の美女と言われる範冰冰(ファン・ピンピン)演じる「武媚娘」、すなわち則天武后のストーリーであった。
 「あった」というと、ちょっと正しくない。このドラマ、聞けばなんと90回シリーズ、毎日放送しても3か月かかる、正に大河ドラマであり、現在も放送中である。
 自分も滞在中楽しく拝見したが、まあ歴史考証はめちゃくちゃだし、言葉遣いは現代風だし、何より則天武后の超人ぶりは、かの反日ドラマの英雄なみである。もちろん、映像はきれいで、演じる人たちの表情やしぐさも魅力的で、何より主役が眩いばかりに美しいので、エンターテイメントとしては十分楽しめるのだが。

 そんな人気ドラマなのであるが、ちょっと面白い余話があった。このドラマ、製作段階から既に注目を集め、多くの人がドラマのスタートを今や遅しと待ち焦がれていたそうである。ところが、16回目が終わったあと、突然の放送停止!
 中国で突然変なことが起こっても、なんだか理由もわからずに(こういうことらしいとの噂が流れるが)そのままということも多い。が、今回は若い人を中心に怒りの声が巻き起こり、それに対応せざるを得なくなったためか、テレビ・ラジオを所管する行政機関の責任者から、本ドラマにはよろしくない部分の「アップ」が目立つため、という理由が示された(らしい)。
 従来から、中国のドラマや映画は、お色気にかなり慎重である。かつてあるお笑い映画を見ていたら、男女が暗闇でベッドの中に消えた瞬間、映像がオリンピックの100m走に切り替わり、ベッドの中に消えたはずの男が中国代表として激走、9秒台の世界新記録!…と次の瞬間、再び画面は切り替わり、ベッドサイドでタバコを吸っている女性の姿。ベッドから男が首をだし、「悪いか!」と一言…お粗末でした…
 ことほど左様に、そっち方面については奥ゆかしい(?)中国において、注目の大河ドラマのお色気と言っても、そのつつましやかなこと推して知るべし、である。確かに、当初は少し「寄り過ぎ」な「サービス・カット」が多かったようだが、まあその程度である。

 そんなわけで、この的外れな理由はまたしてもネット上の憤怒を引き起こし、アメリカなど海外のそういったドラマが氾濫しているのになぜこの程度でダメなんだ!と叫ぶ声が上がることになった。
 すると、またしてもお偉いさんがコメントを出した。曰く、統計によれば中国の女性の92%以上が貧乳であり、胸部を強調したこのドラマを見たら、多くの女性が悲観するだけでなく、そのような女性を妻に持つ男が不満を持ち、その結果家庭ひいては社会の広範囲に矛盾を生じさせるから、とのこと…
 この統計がどうやってとられたのか、またなぜ放送を主管する機関がこのような情報を持っているのか、またそれが本当に「社会の広範囲の矛盾」を引き起こすのか、などなど、考えれば考えるほど首をかしげることばかり…当然、これもまた人々の罵倒と嘲笑を引き起こしたことは言うまでもない。

 いずれにせよ、このドラマ、しばしの中断を経て、再び放送されるようになった。が、なんだか画面上、胸の部分が不自然にカットされている…そして、これも不自然に、顔ひいては頭部が画面を埋めているような…
 この状況、ネット上の画像では一層顕著だそうで(4:3がさらに16:9になっているためか)、カットによっては頭の上のほうがすっぱり欠けてしまったりするとのことで、要求に応じてTV局が大急ぎで映像を処理したことが伺える。
 これが世の若い男性を憤慨または消沈させたことは想像に難くないが、この話、考えてみるとちょっとおかしい。一般に、中国のドラマは、放送前に審査を経なければならないため、全作品の撮影を終えてから放送されると言われている。最近の事情、また本作品について具体的に知るわけではないが、いずれにしても、全国で注目される有名ドラマに、テレビ・ラジオ管理部門の審査が行われていないはずがない。
 とすると、今さら誰がクレームをつけたのか?これについて、中国でまことしやかに語られているのは、具体的な指導者の奥さんの名前である。この人が不快感を示したため、行政機関(責任者)が慌てて対応し、TV局も急いで映像を再度編集して、要求に応じる映像に作り直した、というのだ。これも噂話に過ぎないのだが、このバカバカしいドタバタぶりを見ると、ひょっとすると…という気がしないでもない。

 以上、最近話題のテーマを紹介してみた。多くの部分は断片的に伝え聞いたところであるが、それだけを見ても、今回の騒ぎは何ともバカバカしく滑稽なものであったことがわかる。とはいえ、面白きことは、やがて哀しいのが常。思うに、テレビ・ラジオ総局の官吏も、またTV局・製作会社のスタッフも、バカバカしいと思いつつ、大あわてかつ大まじめに、上からの要求に応じて必死で作業をしたのだろう。
 ふと、あの新幹線事故の際、衆人環視の中で事故車両を無理やり埋めてしまおうとする映像が思い出された。誰かのバカバカしい命令は、当初「そんなバカな…」と思う人がいたとしても、幾層もの伝達を経て、命令に従わないリスクは否応なく増し、ついには慣性的な不感症によりかき消され、いつか何も考えず何も疑わずに、そのバカバカしいことを必死でやることになる。
 思うに、ある目的や正義が絶対視されるところでは、それについて人は考えることをやめるものだ。それを考えること自体が不遜で冒涜であるだけでなく、実際問題として危険だからである。ただその目的や正義は往々にして抽象的であり、その範囲は不確かである。そのため、人々はますます多くのことを考えないようになり、バカバカしいこともバカバカしいと考えず、ひたすら必死で行うことになる。
 それは外から見たとき、不思議で滑稽な光景をもたらすが、その内にはもう少し恐ろしいものが潜んでいる。それは恐らく、谷間のアップによりもたらされる悪影響よりもずっと危険であるように、自分には思われるのだが。

2015年1月3日土曜日

誰が為にニュースは流れる

 上海から、皆さんに新年のご挨拶を申し上げます。ブログをご覧頂いている皆様にとって、今年が良い年でありますように。

 さて、中国は日本以上に迷信的というか、吉祥にこだわるところがあるので、正月の最初はいい話とかめでたい話で始めよう、と思っていた。
 が、困ったことに、正月早々なにやらショッキングな出来事が…とりわけちょうど上海にいる折に、こちらの住居から見えようかという場所で大きな事件が起こってしまったので、これに触れないわけにもいかないように思う。まあ中国の本当の(?)年越しは旧正月なので、めでたい話はそちらですることにして、今回は発生から24時間も経たない衝撃的な事件について話すことにしよう。

 元旦は、いつもに増して早く目が覚めた。空が白むにつれ、大晦日の強い北風の甲斐あってか、数日来のスモッグも消え、久しぶりの青空が顔を出す。今年はいい年だな~…なんてのんきな気分になっていたところ、知り合い経由で衝撃のニュースが!深夜のカウントダウンに集まった人々が将棋倒しになり、事件翌日の朝の段階ですでに35人の死者が確認されたとのこと。
 驚いてTVを着け、とりあえずニュースを確認…ところが、探せど探せど、そのニュースが見つからない。正月番組っぽいものやドラマ、映画、スポーツ、トーク、バラエティ…ほかならぬCCTV(中央電視台=中国NHK)のニュースを見ても、インドネシアの飛行機事故とイタリアの船舶事故の話を詳しくやっているのに、なぜか地元の大事故の話がなかなか出てこない。

 …「なぜか」とは書いたものの、本当を言うと、自分の感覚はむしろ「やっぱり」だった。中国では従来から、報道は「正しい」ことが何より重要で、とりわけ重要なニュースについては、国家と党の関連機関が内容・程度・範囲について精査し、承認があって初めて報道がなされることになる。
 加えて、めでたい(はずの)時期にめでたくないニュースは控える、という習慣もある。今回は元旦を過ぎればいいだけかもしれないが、たとえば旧正月や国会開催日、そして建国記念日などには、その時期を通じて、国民的・国家的に重大な事件が起こっても、たいていの場合は映像もなくわずかに一言ニュースを伝えるのみとなる。

 そんなわけで、現地にいながら、目と鼻の先で起こった事件について、TVからは大した情報が得られない。とはいえ、TVから情報が得られないのは、こちらの人々も同様である。じゃあどうするかというと、みな口コミまたはネット情報に頼ることになる。
 自分にもメールや電話を通して、近しい友人から事件についてのうわさがどんどん入ってきた。いわく、事件現場近くでドル札に似たサービス券がばら撒かれたところ、本物のドル札と勘違いした人々が殺到した結果惨劇が生じたとか。なんともひどい話だと思っていたところ、いや、それは実は誰かが責任逃れのために作り出した話だ、いやいやそれ自体うそではないが、事件現場とはかなりの距離があり、関連があるかは一概には言えない…などなど、さまざまな話が飛び交っているが、どれも事実と断じるには不確かに過ぎる。

 そんなわけで、結局ネットや口コミからも確実な情報は得られず、残念ながら皆さんにビックリ情報をお伝えすることもできないのだが、自分はそもそもこの事件の詳細や真実を伝えようというわけではない。伝えたいのは、ここに見られるTVのあり方と、人々の感覚・考え方との救いがたいズレ、である。
 よくも悪しくもこのニュース、年末年始の中国で間違いなく一番ショッキングな、しかも身近なニュースだったはずだ。それがワイドショー的興味であれ、身近な危険への警戒であれ、なんと言っても場所も被害者もみな国内である。当然、携帯やメール、さらに食事の際や訪問先でも、人と会えば必ずこの事件の話になった。
 それに比して、ニュースのなんと超然としたことか。ローカルニュースはともかく、ほかならぬ中国NHK(失礼…)のニュースは、その多くの部分を予定通りの報道に当て、事件の話は簡略に淡々と「消息」が伝えられるのみであった。
 総じて、中国のニュースは首尾一貫して、人々が何を「知るべき」か、ということに重点を置いている。それは報道人員・機関及び報道内容に対する徹底的な管理と審査、というやり方に顕著に現われているのだが、結果として、人々が何を「知りたい」かということは、二の次三の次ということになる。
 この点は上述のような重大ニュースにも現われるが、どうでもいい部分においてはより顕著である。先日ゴールデンタイムにスポーツニュースを見ていたら、サッカーやバスケなどみんなが大好きなニュースは後回しで、トップ・ニュースは、各省政府体育局局長会議が北京で開催されました…繰り返しになるが、スポーツニュースである…
 ことほど左様に、中国の報道は、人々が「知るべき」こと(より正確に言えば人々が「知るべき」だと政府または党の関係部門が思っていること)に満ちているのだが、これは昔から全く変わらない。
 メイン・ニュースではほぼ必ず、トップで国家指導者たちの動向が報じられ、これが序列順位に沿って延々と続く。党のナンバー5だか6だかがアフリカの小国を訪問したとか、政府のナンバー7だか8だかが山村の農家の収穫を視察したとか、恐らく特定の国家指導者のストーカー以外はほぼ興味のなさそうなニュースが、大事件や大事故を差し置いて延々と続けられる。
 誇らしげなアナウンサーがこうしたニュースを朗々と吟じるのを見るにつけ、このニュースをちゃんと聞いているのは風変わりな外国人だけだとこの人は知ってるのだろうか、と思ったりする。中国でTVを見るのは小さな子供と老人だけだ、などという話も聞くが、それは極端な話であるとしても、TVがそんな体たらくなら、ニュースなどなおさら見ないだろう。「知りたい」ことどころか、「知らなければならない」ことすらわからないとしたら、大事なときにはTVなんてつけてる場合じゃない。
 「知るべき」と「知りたい」が益々乖離していくのを横目に、見てもらえないニュースを今後も延々と続けていくのだろうか…などと思うにつけ、なんだか可哀想な気もしてくるのだが、それにも増して、なんとも空しい気持ちを覚えざるを得ないのである。

 というわけで、2015年もなんだか複雑な船出であるが、変わるべきものはいずれにせよ少しずつ(またはドラスティックに)変わるだろうし、変わらないものは頑強に(またはかろうじて)変わらないでいるだろう。本コラムでも、変化の兆しをとらえ、また不変の核心を見据えながら、中国の姿を伝えていきたいと思う。今年もどうか駄文にお付き合い下さい…新年快楽 年々有余!(2015年元日)

2014年12月31日水曜日

年の終りに

 年の瀬の地下鉄、中吊りにはいつものように厄除け参りの広告が見られていた。大規模な災害や事故では厄年かどうかなんて関係ないだろうと思うと、人間の非力と愚昧を思わずにおれないが、何かにすがりたい思いは、どうしても捨てきれないものだ。

 自分なりに今年を振り返ってみると、一番大きな出来事は、大学時代の友人が亡くなったことであった。早過ぎる旅立ち、亡がらは在りし日の面影を残すものの、痩せ細った体は闘病の苛酷さを物語る。その姿に涙をこらえきれず、十分に別れを告げることもできなかった。温かいお別れの会を通じて、懐かしくも二度と戻らない人を思い、また抑えきれぬものがこみ上げる。上を向いて肩を震わせながら、亡き人が死の直前まで惜しみなく周囲に与えてくれた心遣いに触れ、喪失を嘆くよりも、故人の気持ちを大切にしたい、といつしか思わされていた。

 今年の出来事と言えば、もう一つ、人生で初めて台湾に行くことになった。以前書いたように、別に予期したわけでも狙ったわけでもないのに、最近大陸に行く際は、その直前に尖閣の国有化があったり靖国参拝があったりと、必ずと言っていいほど、ものすごく歓迎されない雰囲気が醸成されていた。初めての台湾も、あにはからんや「太陽花運動」が勃発、総統府など一部有名観光地には近づくことすらできなかった。
 この運動についてはご存知の方も多いと思うが、要するに、中国と台湾の間で締結された協定(サービス業に関する相互の規制を大幅に撤廃するという内容)がその批准手続において違法または違憲であるとして、その撤回または再審査、若しくは本件及び同様の協定批准のための手続の法定を求め、学生がデモや集団的実力行使を行った、というものである(台湾が経済的にだけでなく政治的にも中国に飲み込まれる、という意識が背景にあると言われる)。その結果、多数の学生が議会に突入し、長期にわたって占拠を続け、警察との衝突やにらみ合いが続くということになった、というわけである。
 自分が台北に行ったのは、ちょうど学生の一部が行政院に侵入しようとして警察と激しく衝突、ついには流血の事態が生じるという、正にこの運動がピークに達した時期であった。友人のバイクで立法院や行政院の周りを見せてもらったが、鉄条網を張り巡らした強固なバリケード、そしてその周りに配置された警察官たちを見ると、問題が日本で報道されているよりもかなり深刻であることがわかった。

 さて、この協定であるが、その条件からみれば台湾にとってかなり有利な内容である、と言われている。また、協定締結から運動の激化まで少し時間が離れていた(その間抗議やデモが続いていたのかもしれないが)こともあり、何か血気盛んな学生がその発散の場を求めているだけのようにも見えた。
 何よりも、「民主」を標榜して議会を占拠するという行為は、民主的な選挙を経ていたとしても、議会の決定が自分の主義・主張に沿わないなら、それを「民主」の名の下に実力で破壊する、ということを意味する。それは、「やっぱり中華民族には選挙や民主は向かないんだよ(=一党独裁がいいんだよ)」という声を、ほかならぬ大陸から、時に勝ち誇ったように、また時に自嘲的に、引き起こすこととなっていた。
 このような状況を見るにつけ、自分にはこの太陽花運動が、いわば嘆かわしいもの、あまつさえ忌まわしいもののように思えてならなかった。世界の各地で上がる「民主(化)」を求める声、そこにどれだけの決意や覚悟があり、どれだけ悲惨な結果を招いているか。それに比して、台湾の学生のなんと安全でひ弱、無知で傲慢、そして無謀で欲張りなことか。傍から見ると、負傷者が出たことをヒロイックに語り、謙抑的とも見える警察の「暴力」を罵倒する学生のほうが、よほどヒステリックで暴力的にすら見えた。
 ところが、4,5日ほど台湾で過ごすうちに、そのような考えは少しずつ変わってきた。それは、一つにはこのような学生の熱意に寄り添い、それをも一つの教育の機会として考える先生方に触れたことによる。「太陽花運動」の影響で、台湾の多くの大学で授業ボイコットやクラス閉鎖という事態が生じていたのだが、それに代わり、デモ・占拠現場での辻説法のような街角授業、広場や公園での「民主サロン」といった討議など、教授や外部講師、そして学生自身による「生きた授業」が行われていた。

授業ボイコット中に学内で「青空教室」ばりに講演と討論が行われているところです。

 さらに、闘争の中で学生が見せていたユーモアや風刺には、懐かしく切ない思いと共に、この運動が平和裏かつ成功裏に終わってほしいという気持ちがこみ上げてきた。それは、権力者の理不尽や非情に直面したとき、それを罵倒または非難するのではなく、むしろ風刺やユーモアでこれを笑い飛ばそうとする、無力な人々のささやかな抵抗が、凄惨な結果をもたらした数々の事件を思い出させたからである(https://www.youtube.com/watch?v=XFDL2ATny9I または https://www.youtube.com/watch?v=0c6SdPi4174 参照)。そこには、理不尽や不条理にも笑いを以て立ち向かおうとする中華民族の良き伝統が溢れるとともに、言葉や気持ちで人々に訴えかけていこうとする真の(または高次の)「討議的民主」の姿が見いだされた。
 ご存知のように、この事態は最終的に双方が譲歩し、協定の再審議と手続面での整備が約束され、ついに学生たちが自発的に立法府を明け渡すことにより、平和的に解決を見た。自分はどこかで、「きっと警察が突入して流血がおきるに決まってる」という臆病者的マジョリティ意識に支配されていたのかもしれない。そんなわけで、この「意外な」解決を目にしたとき、自分の中には強い羞恥と、新しい希望がもたらされた。同時に、台湾の警察官たちが、極限の疲労と困難の中で、学生を若き(未熟な)同胞として、その行為に精一杯の忍耐力を以て接し、安易な暴力を控えたことに、心から敬意を表したい。

某大学教授の研究室に張り出された「授業ボイコット」の張り紙です。「学生は安心してデモに参加するように」と書かれています。

 自分のこの気持ちは、おそらく大陸の方々に(表立っては)共有されにくいであろうし、また日本の方々の多くも、違う感覚・理解を持たれるかもしれない。ただ自分はやはり、情熱と希望と笑いこそが中国に一番よく似合う、と思う。その思いを確認しつつ、この年の終りに、初めて中国に訪れたときの気持ちを思い出しながら、言葉を連ねてみたのである。

2014年12月22日月曜日

暢気な選挙

 先だっての選挙では、某TV局はジャニーズのS君とイケメン政治家K氏の対談を組んだりしたらしいが、これに元N○KアナウンサーT氏が「選挙特番にアイドルとかおかしい」といった書き込みをし、例によって「炎上」したとのこと。自分はそもそもTVを見ないので、この事件については何をかいわんやであるが、少し興味をひかれたこともあり、ちょっと選挙について考えてみることにした。

 西洋の方々から見たとき、日本の選挙がかなりクレイジーに映るのは、つとに知られたところである。以前ドイツのTV局が日本の「どぶ板選挙」のドキュメンタリーを作成してあちらの人を驚かせた、というが、我々が当たり前と思っているいくつかの情景、例えば候補者が必死で頭を下げて時には土下座までしてお願いするとか、街宣車が巨大な音声で政党と名前を連呼するとか、ちょっと考えてみれば頭のおかしい人(たち)と思われても仕方がない絵に満ちている(実際そうかもしれないが)。
 とりわけ東京では、選挙なんだかどうだかよくわからない変な立候補者が目立つ。写真もない選挙ポスターに「自分は救世主で世界はもうすぐ終わる」といった話を小さな字で大量に書いてる人、政策よりも「スマイル!」や「発明」の話ばかりしてる人、自称ロックスターに戦国大名…何の選挙でも出てくる節操のなさもあって、こういう人たちこそが日本の選挙を代表する人たちのように感じられる。
 変な話、西洋よりむしろ中国(大陸)の選挙と比べると、そのバカバカしさはより鮮明になる。中国では日本のようなヘンテコな立候補者も、けたたましい街宣カーも、万歳や土下座に満ちた狂騒的選挙活動も目にすることはない。それどころか、選挙特番や政見放送、そして関連の宣伝や広告すら目にすることもない。
 念のため言っておくと、「一党独裁」とされる中国にも、共産党以外の政党があり、各レベルに議会(「人民代表大会」という)があって、議員の選挙がある。直接選挙は末端の二つのレベル(いわば市町村くらい)に限られ、あとは間接選挙になるのだが、いずれにしても、日本の議員にあたる「人民代表」は、末端から頂点まで一応選挙で選ばれている。一部の大都市では、かなりラディカルな主張を持つ候補者が、選挙民の熱烈な支持を受けて当選することもあるほどだ。

 …とは言ってみたものの、お察しのとおり、この「選挙」、現在我々が思うような選挙とはほど遠い。解散の仕組みを持たない中国では、5年の任期毎に一度選挙が行われるのだが、大方の場合、各選挙区の立候補者は「望ましい人物」に限定され(法的根拠すらある!)、空気を読まない輩が立候補したりすると、選挙期間中なぜか姿を消してしまったり、突然変な罪名で拘束されてしまったりする(明治、大正期の日本のように!)。
こういう事態の根源は、選挙開始前、上級の共産党の偉い人から伝達された「選ぶべき人」のノルマ(性別、民族、職業、戸籍、党員非党員の別…)にある。要するに、これは「あなたの選挙区ではこういう人が選ばれます」、という「神の声」であり、当然ふたを開けてみれば(ほぼ)必ず「選ばれるべき人が選ばれる」ことになる。そして頂点たる「全国人民代表大会」に至っては、その中間に重ねた間接選挙(とそれ以外の仕組み)の甲斐あって、「選ばれるべきでない人」などは決して選ばれないことになるのである。
 言うまでもなく、このような状況は、人々の選挙に対する熱意を失わせる。自由は保障されず、選挙活動は制限され、大した主張もできない。何をしたって、どう頑張ってみても、結局決まったことが実現するだけなのだ。選挙に期待や熱意など持ちようがない。

 翻って我がニッポンを見てみると、立候補者が突然消えたり、逮捕されたり(ビラ配りは捕まるが)もせず、自由な立候補と選挙活動は保障され、その結果、ヘンな人がおかしな主張を繰り返す…あちらと比べるとなんとも暢気な情景である。
 ところが、不思議なことに、選挙は盛り上がらず人々の投票意欲は著しく低い。その原因として、一つには、選挙や政治なんか興味ない、という人々の意識の問題があるだろう。その意味では、汚いオッサンたちが偉そうな説教をタレる番組よりは、イケメンたちが未来を語る番組を流したほうがずっとよい。
 ただ一層気になるのは、中国同様、「結局決まったことが実現するだけ」という予定調和の問題である。今回の選挙でも、おカネの問題で閣僚の辞任が相次いで、それに便乗して「キャバクラ」だの「エルメス」だのが飛び出し、収支の「訂正」も相次いだ。にもかかわらず、そういう人たちは軒並みトップ当選(関係事務所のパソコンを破壊してたりするのに!)、みそぎは済んだ、新たな船出だ!ときたもんだ…要するに、「選ばれるべき人が選ばれる」という点では、日本の選挙も似たようなものなのだ。
 考えてみれば、国民が必要を感じてもないのに突然解散して、何百億もかけて選挙をするというんだから、もはや誰の誰による誰のための選挙かは明白である。少なくとも、莫大なお金と時間と労力をムダにしてまで国民に選挙を強制したりはしない、という点については、中国のほうが日本よりまし、とすらいえる。

 とまれ、逆説的ではあるが、自分はこれが「必要のない選挙」であることを心から願っているのである。既に圧倒的多数を有する与党が、大量の国費を使って敢えて選挙をやる、それがより大きな目的によるものであるとすると…と考えるだけで背筋が寒くなってくるのは、果たして自分だけであろうか。

2014年12月9日火曜日

「法治」の行く末

 以前某所で「井の中の蛙」として駄文を書き散らしていたのだが、このたびゼミの学生が場所を用意してくれたので、こちらでまたいらぬことを書き連ねることとなった。古い蛙を新しい井戸に入れただけ、という憾みがなくもないが、新しい水になじむよう、もっと良い声で鳴こうと思うところである。

 さて、昨日(12月8日)の1時頃、某所で偶然テレビの画面を目にした。それはT○Sの「ひるOび」(事情により名前は伏せます)で、ちょうど中国の元共産党中央政治局常務委員(当時の最高幹部9人の一人)周永康氏が汚職や贈賄などの疑いで逮捕、というニュースの解説をやっていた。
 この周氏であるが、在任中から黒い噂に欠くことはなく、しかも同氏との強いつながりが指摘されていた太子党のホープ薄熙来氏が失脚したこともあり、2012年の新指導体制成立以前から、X-Dayを予想する声がしばしば聞かれていた。またエラい人間が膨大な蓄財をしていることはこれまた周知の事実で、彼ほどではなくとも不正蓄財で処罰されるエラい人など掃いて捨てるほどいる。
 そんなわけで、この逮捕には大して「ニュース」性もないのだが、その地位の高さもあってか、金、権力そして色を巡るどす黒さは他の事件の比ではなく(不正蓄財は2兆円、出世と色のために邪魔な前妻は事故を装って殺害、かつての職場では強姦を繰り返し、愛人は29人いたとされている)、ワイドショーにとって格好のネタであったとは言える。
 このように概ね興味本位の、いわばありがちなワイドショーネタが、しかし自分のある意味学問的関心を引いたのは、あるニュース・フリップの内容が原因であった。それは、周氏の逮捕が、習近平総書記の下で現体制が唱道する「法治」を体現するという意味がある、とするものである。つまり、エラい人でもワルい事をすれば捕まるよ、ということを人民に見せるため、ということらしい。
 念のため言っておくと、このコーナーでは、中国の権力闘争に関しては日本屈指の論者というべき研究者が解説に当たっていた。要するに、コーナーの主眼は権力闘争(及びその他ドロドロ)であり、そもそも「法」の問題にはなかったのだろう。そうすると、なんだか見当違いな批判をするような感じはするのだが、そこは中国「法」研究者としては捨ててはおけぬところ、なのである。
 捨ててはおけないのは何か、というと、それは「法治」の言葉の軽さ、ひいてはその価値の喪失、というべき問題である。この点、少し敷衍して説明したいと思う。

 あちらで政治的地位が高い人が逮捕される場合、それよりかなり前に共産党内での身柄拘束と尋問が行われ(しばしば長期化する)、突然公的な場・行事から姿を消す。今回の周氏にしても、だいぶ前に身柄拘束が伝えられており、長期にわたる身柄拘束の末に、今回の逮捕に至ったのである。
 問題なのは、この身柄拘束には、司法機関による令状や審査・承認の類は全く必要がない、ということである。要するに、ここでは刑事手続上の権利保障などが働く余地もなく、現実には警察や司法よりよっぽど強力な、際限のない身柄拘束と尋問が繰り返されることになる(拷問による死亡事件などもたびたび指摘されている)。
 より深刻なのは、このような法の精神を無視した身柄拘束とそれによる訴追が、少なくとも報道では、「法治」の体現として人民から喝さいを以て迎えられている、とされることである。エラくてワルい奴が処罰されることに人民が溜飲を下げるのはわからないでもないが、報道・輿論は「無罪推定」どころか、もはや「有罪断定」状態である。
 実際に、エラくてワルい奴が捕まると、愛人だの強姦だの小児性愛だの、凄まじい罵詈雑言がメディアを飛び交うのだが、実際に訴追される犯罪は意外なぐらいわずかな不正蓄財だけ、ということが散見される。要するに、ここではエラくてワルい奴には何をしてもいい、という精神状態が蔓延しているのであり、これはリンチが蔓延した文化大革命期の精神構造と変わらない。
 何より、表面上エラくてワルい奴が処罰されたように見えるが、実は既にエラくなくなったから処罰されたわけで、エラい奴が処罰されない状況は変わらない。そして報道を見る限り、彼がエラいときは、不正蓄財しようが強姦しようがさらには殺人までしても、訴追すらされなかったのである。声を上げた者もいただろうが、そのような者は反逆や誹謗、さらには国家機密漏えい等の罪に問われ、結果として空気の読める人たちばかりが残ったのだろう。こういう構造を残したままで、エラかったワルい人だけ処罰して「法治」の体現だと言っている、その矛盾または空虚こそが問われるべきではないだろうか。
 別に他人のことだからいいよ、という向きもあろうかと思うが、ちょっと考えてみてほしい。エラくてワルい奴なんて掃いて捨てるほどいるわけで、彼らへの怒りや憎しみが高まったからと言って、そういう連中を根こそぎ処罰するわけにもいかない。そうすると、今回のように権力闘争の脱落者を生贄にするか、または(おそらく同時に)エラそうでワルい隣の軍国主義者への脅威論が(なぜか)高まり、反日感情が燃え上がることになる。そうすると、日本人旅行者や駐在員は嫌がらせを受け、日本製品のボイコットが起こり、重要物資の対日輸出が制限され…要するに、単純に他人事ともいえないのだ。

 そんなわけで、中国「法」を研究する日本人としては、エラくてワルい奴がバンバン処罰される(往々にして死刑にならないが)よりは、むしろこういうやり方自体ちょっとおかしくないか、という言葉や意識が出てくることにもっと期待しているし、できれば日本の報道もそうあってほしいと思っている(中国の人たちもいっぱい見ているし)。
 それがすぐさま中国によい「法治」をもたらすわけでもないし、大して効果もないかもしれない。また、「法治」が実現しても反日暴動がなくなるとは思えない(54運動のように、民主や自由を求める人々も運動の主力となる)。だとしても、興味本位でエログロの関心を掻き立てるよりずっとましだろう。何より、自由や権利を保障する憲法が変えられようとする時代、自分たちの「法治」の姿を考える良い機会になるかもしれない。もう遅すぎるのかもしれないが。